あっちゃんの履歴書(前編)

あっちゃんの履歴書(前編)

このブログの第一歩であるこの投稿をいったい何のテーマにするか?

色々浮かびましたが、この投稿は、皆さんがこのブログに読む価値があるかを見きわめる、いわば就職面接のようなもの。

今回は履歴書代わりに、私が現在に至る四半世紀の道のりを、メッチャ要約(約6千文字)しつつも美化無しでツラツラと書いて行きたいと思います。

理学療法士ってなんだ?

——時代は昭和63年までさかのぼります。

昭和63年といえば、北海道と本州を結ぶ青函トンネルや瀬戸大橋などが開通し、美空ひばりが東京ドームの不死鳥コンサートでボロボロの身体で熱唱してファンの涙を誘い、ソウルオリンピックで鈴木大地がバサロ泳法で金メダルを獲って世の中が感動に酔いしれていた時代です。

と、時代背景を読んでもアラフォー以下はまったくピンと来ないでしょう。私自身があまりの昔に、懐かしさどころかめまいを感じているくらいです。。

高校3年生に進級したばかりの私は、将来の目標もなく、受験勉強して大学に進級するつもりもさらさらなく、漠然と公務員試験を受けて地方公務員にでもなろうか、と甘い考えを抱いていた無気力な子供でした。

そんな私に最初に『理学療法士』という存在を教えるというGJを果たしたのは、当時タクシー運転手だった私の父だったのです。

この父親はその性格と気配りで人を喜ばせる名人ですが、大の酒とパチンコ好きで金遣いが荒く、私の家がものすごく貧乏なのは、このオヤジが原因だと私は信じて疑わず、こんな大人にだけはならないと固く自らに誓っていたものでした。

ところがよりにもよって絶対になりたくないと思っている大人に、人生を左右されてしまうとは——。

人生というのは、時々ものすごい皮肉な存在で操られているとおもいます。

しかしせっかくのGJにもかかわらず、その時の私にはまったく感銘を与えないどころか、強いいかがわしさしか感じさせませんでした。

——想像してください。

酒焼けしたオッサンが、真昼間から強烈なアルコール臭をふりまいて、ビールのゲップ混じりに「理学療法士」と私の耳元でささやいても、まがまがしい黒呪文にしか聞こえませんよ。

絶対にまっとうな仕事ではないと思いましたね。

で、親父にいきさつを問いただしたところ、ある日仕事で大病院の院長先生を乗せることになり、その先生が雑談がてら「運転手さん、これから理学療法士っていう職業は引く手あまただよ。もし子供さんに高校生がいたら、目指してみることをお勧めするね」と熱く語られたという次第です。

「引く手あまた」という言葉に非常に興味をそそられましたが、そうと親父に悟られるのもシャクでしたし、飲んだくれのヨタ話という可能性も捨てきれなかったので、その場は気のない返事をしておいて自室にひきあげました。

今の私であれば、その場でスマートフォンをポケットから出し、理学療法士について即座に検索しているところですが、その当時はスマホどころかポケベルすら一般的ではない時代。書店での立ち読みによる情報収集あるのみです。

情報誌を読み進めていくうちに、親父の言うことがまんざらガセではない事が分かってきました。どうも「引く手あまた」というのは本当らしい——。

当時近畿圏で養成校といえば5校程度でしたが、さっさと志望校を一校に絞り、そこの学校説明会の参加を決めているのですから、無気力な私にしてはかなりの行動力だったと思います。

ちなみに志望校の選定理由ですが、当時、私が苦手だった数学が試験科目になかったのがその一校だけだったからです(笑)。

説明会で話を聞いて、もう私は理学療法士になるつもりでいました。超売り手市場な上、病院で白衣を着て活躍している理学療法士の自分。想像するだけでテンションダダ上がりですよ。

ただ問題は、家の経済事情で学校に通うのは可能か、ということと、その学校の毎年の入学倍率がおよそ15倍であることです。

前者については母と相談をし、絶対に留年をしないことを条件に許可が出ましたが、問題は後者。それまでの勉強といえば、クラブ(吹奏楽)に明け暮れてテスト勉強など最低限の労力に抑え、とにかく「落ちない」ことだけを目的としてきたため、合格するための充分条件などはるか彼方。とにかく時間があれば単語の一つも憶え、土日は電車を乗り継ぎ図書館で参考書と格闘していました。

洗礼(というより因果応報)

ともあれ、運と実力のどちらが微笑みかけたのか入学できた私は、すぐに割のいいバイトを見つけてお金を稼ぐ楽しみに目覚め、授業はサボってもバイトは必ず出るという生活を送っていました。

これではクラブがバイトになっただけで、高校生活のくりかえしですが、専門学校に入学できたことですっかり安心しきっていた私は、大学と同じように入ってしまえば卒業はもう間違いなし、と安直に考えていたのです。

ですが覚えなければならない知識の質量が根源的に違います。当然成績はクラスで最下位レベルで定着し、2年次の科目の専門分野という高い壁で今までのやり方ではまったく歯が立たなくなり、このままでは母と交わした留年だけはしない、という約束を守ることが困難となったため、バイトをやめて本道に立ち戻ったおかげで皮一枚を残して留年は免れました。

しかし、2年もの間、享楽をむさぼってきたしっぺ返しは、これから始まることになるのです。

理学療法士養成校での臨床実習は、1年次の見学実習(1週間)と2年次の検査実習(2週間)、評価実習(3週間)を経て3年時には総合実習(8週間)があるわけですが、当時私の母校では総合実習は3回(施設)あり、それをクリアした学生が卒業試験と国家試験にチャレンジする切符を手に入れることができるというシステムでした。

実際の臨床現場で行われる、学生の最終オーディションともいえる総合実習で、学生に求められるものは当然生半可なものではなく、自分に甘く、知識ペラペラの私を待ち受けていたものは、当然バラ色の平坦な道ではありえませんでした。

1施設目は温情でクリアできましたが、2施設目でとうとう保留がつき、いよいよ万事休すです。

保留というのは実習の現場では判断できないので、あとは学校に任せるという事で、いわば私はまな板の上の鯉。今までの学業に対する態度も含めて、希望的な要素は何もないように思われました。私は文字通り首を洗って学校の判断を待っていました。

そこで下された学校の判断は、3施設目の実習の結果をみた上で、2施設目の合否を決定するというものでした。

私にとっては地獄で仏、渡りに船、大海の木片です。それこそこのファイナルチャンスを逃さないよう必死でがんばった結果、延長にはなったものの最終的には3施設目で合格をもらうことができました。

それによって2施設目の保留も合格扱いとしてもらい、その後の卒業試験と国家試験も無事にクリアでき、あれほど夢見た、あっちゃんPTの誕生です。まあ学校にしてみれば、早いとここんな厄介な学生はさっさと卒業させてしまおう、という事だったのでしょう(汗)。

船出

さて、晴れてライセンスを取り、中堅病院への就職を果たした私は、今までの怠惰を深く反省し、勉強会や学界に足しげく通い、技術と知識を研鑽する毎日を続けるわけです——

——と、そうなればよかったのですがね。。。(苦笑)

実際は、これまで強いられた、学生時代の苦痛と心労の元を取るかのように、セミナーにも参加せず、稼いだお金を自分の好きなことだけに注いでいました。

職場も3年後には、より報酬の高い施設にちゅうちょなく移り、アルバイトでもけっこうな収入を得ていました。

だって私が我が世を謳歌していた平成5年頃の世の中って、バブルは完全に崩壊し、就職戦線は氷河期といわれ、若者たちが活躍できる場もなく、ただただ不景気にあえいでいたんですが、そんなのはどこ吹く風で、就職面接でよほどの粗相をしない限りは、条件を有利に運ぶことができましたし、バイトもその当時のある老健では時給9千円台というのを見たことがあります。実際に私が行っていた所の時給は、7千円でしたし。バイトだけで生活やっていけるんじゃないかって、本気で思ったことも一度ではありませんでした。

——ある意味すごい時代でした。

でもその一方で、こんな異常にウハウハな状態が、いくらなんでも、いつまでも続かないんじゃないだろうか、という漠然とした不安も感じていたのは確かです。

しかし、毎日すべき仕事を問題なくこなしているだけで、余裕のある生活が保障されているようなものだったので、特にアクションを起こさず、ひたすらぬるま湯に浸り続けていたのです。

別れ

そんな状況に転機がやってきたのは、自分ではなく、私の母の身体の変調によるものでした。

母が全身のだるさと下肢の動きのにぶさを訴えることが多くなり、主治医からは以前から患っていた子宮筋腫が大きくなっているためで、手術により子宮を全摘出することになるが、恐らく症状はかなり改善するだろう、との見立てで、母と私は何の疑いもなく手術に同意し、子宮を摘出するに至ります。

術後の経過は非常に良好で、母は予定通りに退院でき、勤務先にも復帰を果たして、数年来悩まされ続けた病気からも、これでおさらばできると周囲も安堵していました。

ところが、予想外の伏兵が潜んでいたのです。

退院して数ヶ月経過しても、だるさは改善せず、身体の動かしにくさは下肢だけにとどまらず、体幹や上肢に及ぶようになりました。

当初は子宮を摘出してホルモンバランスが崩れたせいだろうと、誰もが思っていましたが、退院後半年を超えても悪化の一途をたどると、さすがに首をかしげる者も出始めました。

母は親類の勧めで、ある病院の神経内科を受診しましたが、その結果は私も予想していないものでした。

パーキンソン病——。

それまで私は仕事でイヤというほど聞きなれていたその病名が、これほどまがまがしく感じたことはありませんでした。と同時に、母がパーキンソン病である事実を私はなかなか受け入れることができず、むしろ親類に対し、余計なことをしてくれた、と恨みがましく思いさえしました。

今となっては理由ははっきりしています。

親類へのいらだちは、すなわち自分の不甲斐なさに対する怒りの裏返しです。なぜ病気について周囲で最も熟知している自分が、まっ先に気づいてあげられなかったのか——。

50歳手前で発症し、若年性という事もあってか、病魔の進行は見たこともないほどの速度で母の身体を蝕んでいきます。私の後悔や苦悩など、まるであざ笑うかのようです。

入院して薬を調合しても、しばらくするとまったく効果がなくなりまた入院——。

この繰り返しでした。

当時、私は既に結婚していましたが、この頃の妻の献身的な母への対応には、一生頭が上がらないでしょう。

そしてこの病気が発覚して約5年経過し、別の病気が既にパーキンソン病で弱った母を更に苦しめます。

それは、くも膜下出血です。

結局これが致命傷となり、1年後の2003年1月に肺炎で母は54歳でその生涯を閉じました。

あっちゃん当時31歳でした――。



教員としての道へ

母の死は、私のメンタルを破壊するかと思われるくらいの威力を持っていました。

いや、実際壊れていましたね。だって喜怒哀楽の「怒」と「哀」のコントロールができない。いつどこでスイッチが入るかわからないんですから。

街中で仲良く笑い声をあげているカップルを見るだけで「何がおかしいんだこの野郎!!」って制御困難な怒りが湧き上がってくるかと思えば、前触れもなく涙が止まらなくなったり。

こんな状態で仕事になるわけがありません。

結局、迷惑を承知で職場を2週間休ませてもらいました。

 

いやあ、自分がこんなにマザコンだったのかって思いましたね。

でもこれを読んでくださっている男性諸君、男は大なり小なり皆マザコンですよ。お母さんがご健在なら今のうちに孝行してくださいよ。もちろんお父さんもですが。

『(墓)石に布団は着せられぬ』ですよ。

 

とにかく心療内科にもかからず、私は辛うじて職場に戻れるほどまでに持ち直しました。

もちろん妻の支えのおかげですが、最大級のカンフル剤となったのが、母が他界したその年に、第一子を授かったことが非常に大きかったでしょう。

これがなかったら、私の復活は大幅に遅れていたことでしょう。

ともかく母の死によって、私の中で、ある疑問が日に日に膨れ上がってきました。

それは、「自分が今持っている引き出しで、何ほどの事ができるんだろう?」というものです。

それまでの10年間は、自分の生活レベルの向上のために資格を行使することばかりで、自分の付加価値を向上させるために小指一本も動かしたことがなかったんですから。

そもそも理学療法士を目指していた学生の時点から、理学療法士とは目的であって手段とは思っていませんでした。

それが母親という何者にも代えがたい人を失って、遅まきながら気づいたわけですから、バカですよね。

しかし「母親が死んだ事実」と釣り合うだけの「母親が死んだ意味」という錘(おもり)がないと、私が今後、理学療法士であり続けるために必要な心の平衡が保てなかったのかもしれません。

そして得た答えが、「そうだ、教員になろう」でした——。

 

——ハイもうワケわかりませんよね。

未だに私が教員になったことは、同期の間でも「七不思議」のひとつとして語られているらしいですから。

ただ、前にも書きましたが、理学療法士というだけで、こんなにオイシイ状況がいつまで続くんだろうか、という不安があり、これを軽減させつつ自分の付加価値を上げるのに、自分の理学療法士としての戦闘力を高める必要があると。

それにはただお勉強をするのではなく、自分の言葉で人に教える、すなわち教員が最適ではないかという結論です。

 

——結局9年間、教鞭をとってきたわけですが、明らかに自分がビフォー・アフターで別モノになったのを実感しています。無数の貴重な出会いがありました。出張で日本全国に行ったなあ——。

最後の担任クラスの学生は、彼らがこの世に生まれた時には、既に私はPTをやっていたという衝撃から、きちんと言葉が通じるんだろうか、と本気で危惧したものですが、根性のある、いいヤツラでした。

そんな彼らも今年(2017年現在)で5年目というのですから、月日が経つのは本当に早いもの。

月日で思い出しましたが、母を失ってから、私は自分の寿命を母の享年と同じく54歳と思っています。現在は46歳ですので、あと8年の命です。

それが長いか短いかはわかりませんが、私は親からもらったこの命を、無駄にせずに大事に使っていくつもりです——。

でもできればもう少し長生きしたいですね(笑)。

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