あっちゃんの履歴書(後編)

あっちゃんの履歴書(前編)の補足です。
この9年間で、自分でももう一度勉強するつもりで、本当に色々な科目を担当しました。
以下列挙していくと、
- 理学療法概論、リハ概論
- 運動療法学
- 日常生活活動学
- 義肢装具学
- リハ医学
- 評価学(CVA、整形外科、MMT)
- 運動学(基礎・臨床)
- 物理学
- 治療学(整形外科)
プチ講座や演習を除けば、このくらいですね。
時間があれば授業準備してました。文献を調べ、不足があれば図書室へ行って補足し、調べる中で次々とわいて出る疑問をクリアしていき、形が出来上がってくればパワポ作成——。
それでつつがなく授業が終わればいいのですが、学生の鋭いツッコミ、いや質問に応えられなければ、一旦宿題として次回までに調べる・・・。
その積み重ねのおかげで、私の頭脳とPCには膨大な授業資料という財産が残りました。
特によかったのは、引率という立場ですが、大学病院での解剖実習に行けたことです。
——学生をやり直して唯一、やりたいことと言えば、解剖実習でしたから。
理学療法士を取り巻く状況は、劇的に変わってしまいました。
理学療法士の総数からして、私が教員になった2004年度で4万人だったのが、教員を卒業した2013年度には11万人と、3倍近くになります。
診療報酬の算定方法もガラッと変わってしまいました。
教員を卒業して世の中へ一歩踏み出してみると、風景そのものがまるで違うーー。
——気分は浦島太郎でした。
あっちゃん所長。そののち、あっちゃん施設長。
そんな私が再就職先に選んだのは、教員時代から関わりがあった、介護福祉関係の有限会社(のち株式会社化)でした。
選定の理由は、会社の代表がとにかく野心的で、と言ってそれが盲目的ではなく、リスクへの計算が緻密あり、安定感があること。
トドメにアタマの回転が速い速い。その首の上についてるのは、本当に同じアタマか(きっと別モノ)ってくらいです。
とにかく勢いはあるも、まだ小規模なそのグループに、マネージャー(施設長)待遇で入職することになりました。
そこで私はしばらくゆっくりしようと、新人モードで構えていたのですが、代表は許しませんでした。
入職早々の5月下旬、青天の霹靂(へきれき)のごとく、代表命令が私の頭上に落ちかかります。
訪問看護ステーションを7月1日に設立するべく準備せよ——
——ハァアアアアアアアア‼︎⁉︎
何ですかこれは一休さんのトンチかなにかですかそうですか⁉︎
猛然と代表に食ってかかりたいところを、グッとこらえる私——
私は安易に「無理」というのがゴキブリよりキライです。
その単語を一回口にするたび、自分の能力と伸びしろと可能性を、全部打ち捨てるような気分になるからです。
とにかく他のマネージャーの手と知恵を借り、市役所にも足しげく通い、書類を整え、職員を募集し、ケアプランセンターへ広報活動に回り。。。
息もつかせぬ1ヶ月余——。
そして、7月1日——。
——なんと、実現してしまったんです。
「こんなにカンタンに出来ていいの?」
私の正直な感想です。
無論、準備資金は会社持ちですし、事務所もグループの施設の一角を使ったというアドバンテージはありました。
しかし、自治体の審査を通過して事業所を設立するなんて事は、たやすく行くはずがないし、世の中そこまで甘くない、と思っていました。
初めて「思い込み」の影響力の大きさを思い知った瞬間でしたね。
もうひとつ、気づいた事があります。
——それは、この経験って、自分にとって大きな付加価値になったのではないか、という事です。
分かりやすくいうと、 自分は理学療法士として(としなくても)結構ツブシがきく存在に、少しはなれたのではないかと。
というのも、今まで培ってきた、理学療法士や教員以外の、交渉力、問題解決力、忍耐力、等々が、たった1ヶ月余で一気に身についたのを実感したからです。
それはこれからどんな仕事をするにしても、自信と実績に基づいた安定感を伴うことになると思います。
さて、無事にステーションを立ち上げたとしても、私は所長として、可及的速やかに事業を軌道に乗せなければいけません。
それについては、私はまったく不安を感じていませんでした。
根拠のない自信のようなものがありました。
ひとつひとつ丁寧に仕事を行っていれば、周囲は必ず認めてくれる、みたいな——。
おかげで徐々に実績も上がり、スタッフも増えていきます。
私は自分の仕事のやり方に、ますます自信をつけていきます。
そこで出てきたのが、グループ傘下のリハビリ特化型のデイサービス施設長をやらないか、という話でした。
その施設は、まだリハ特化型デイが他ではやっていない頃からの、いわゆる「老舗」でした。
私は「駒」として、それが組織として必要なら、と二つ返事で承諾します。
「無理」と言いたくない心理も働いたのかもしれませんが、後になって考えてみれば、それが今回は裏目でした——。
といって、まったく自分にとってマイナスだったわけではありません。むしろその逆です。
新規獲得数も増え、利益率も当時、参加施設でトップとなり、数字を追う楽しさも覚えました。通所介護について無知に等しかったので、目から何枚ウロコが落ちたかわかりません。
でも私は根っからの訪問スタッフだったんですね。。。
利用者の住環境を整え、身体機能をアップさせ、生活範囲を拡大させて、利用者が自己効果感を感じた瞬間の充実した表情をみることに、私自身、何ともいえないやりがいを見いだしていたのです。
そしてその仕事は、セラピストでなければ不可能なのです。
そこがデイサービス施設長と決定的な違いでした。
そして日を追うごとに私のモヤモヤと、訪問業務に携わりたい気持ちが大きくなっていきます。
ちょうどその頃、訪問看護の所長だった時に働いていた看護師から打診が来ます。
自分が立ち上げた訪看ステーションに来ないか、と——。
実はその看護師からのラブコールは、初めてではありませんでした。
しかし施設長という立場上、グループへかける迷惑も大きく、言を左右にして断っていました。
仕事にやりがいを感じていたことも確かですし。
自分自身をここまで成長させてくれた代表に対し、申し訳ない気持ちも非常に大きかったです。
しかし訪問看護業務に戻りたいという気持ちが大きくなってくるにつれ、私の悪魔がささやきます。
——周りに迷惑をかけるって?お前ごときがうぬぼれるんじゃねえ!それこそお前の「思い込み」かも知れねえじゃねえかーー
私の天使がつぶやきます。
——あっちゃんの年齢からして、もう職場を移動するのはラストチャンスだよ。あっちゃんが自分らしくいれることを優先しようよ——
かくして、私はその看護師の誘いを受けることを決断しました。
2015年5月の事でした。
そして、今——。
私も訪問看護ステーション所長として、無能とまでは思っていませんでしたが、誘ってくれた看護師、今は私の上司である所長の働きをみると、仕事のスタンスの違いは歴然でした。
複数の往診医や医療機関の地域連携室とのパイプを作り、それを太く成長させることでケアマネの信頼度を高め、みるみる地域での地盤を広く強固にしていくのです。
仕事の依頼もケアマネのみならず、病院、往診医、保健センターなどから直接来るようになり、利用者の疾患も多岐にわたり、年齢層も0歳児から100歳までと、病院勤務時代でも経験したことのない幅の広さです。
現在は、ステーションもサテライト(出張所)を設立し、私はそこのリハビリ部門のリーダーとして尽力しています。
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