吃音と私の半世紀。

吃音と私の半世紀。

はじめに。

──私には吃音があります。

日常会話では特に問題無く話ができますが、人前で話すときや上司との会話で心理的に緊張を強いられているときは、言葉が出にくくなる頻度が高くなる傾向にあります。

特に思春期では本当に悩まされましたよ。恋多き年頃でもありましたしねぇ──。

今回は、そんな私と吃音との半世紀にわたる闘い、ではない、歩みについて述べていきたいと思います。

吃音との最初の出会い。

──これは私の母親から聞いた話です。

私は物心ついたときから、ほかの子どもと違った特徴がありました。

それは何をするにも左手を使うということです。

お絵かきをするのも、スプーンや箸を使うのも、ボールを投げるのもすべて左手です。

そんな幼い私をみて、母親はこれからの成長で感じる不便を思ったでしょう。

──ある日、私に対して利き手の矯正を始めました。

最初はペンを左手で持つことを禁じ、絵であれ文字であれ、例外なく右手で書くように厳しく接しました。

徐々に私は右手で文字が書けるようになり、その技量も上達していきます。

しかし、その上達に反比例して、口から言葉を発しようとすると、確実に「どもる」ようになっていきました。

想定外の事態に、母は恐怖を感じました。

結局、私の利き手矯正は書字だけにとどまり、残ったのはそれ以外の左利きと吃音だけになってしまいました。

そしてコミュ障に。

私の小学校時代の記憶は、あまり明るいものではありません。

とにかく人前話すことはおろか、授業中に先生にあてられて教科書を朗読することすらままならないわけですから。

さらに私には軽い注意障害の傾向があるらしく、準備は人一倍遅く、授業中に何か思い立ったことがあると、じっとしていられない子供でした。

おまけにどれだけ自分で注意しても、準備物や宿題を常習的に忘れてきてしまう。

そんな私に当時の担任の先生はよほど腹にすえかねたのでしょう。

落ち着きなく、忘れ物ばかりする私に『うっかりさん』という不名誉きわまる称号を与えるにいたります。

いまそんなことを教師がすれば、確実に全国ニュースですが、その当時は個別性に対して、非常に不寛容な時代だったのです。

当然クラスメートが私に対して理解を示すはずもなく、私は常に主要なグループから弾かれる立場にありました。

そのまま中高を経た後、アルバイトは対人サービス業はことごとく長続きせず、長続きしたのは清掃や機械組み立てといった、コミュニケーションとは縁のない業種を無意識に選ぶようになっていました。

そんな私が理学療法士という、バリバリの『対人サービス業』を選んだのは、本当に奇跡だと思います。

吃音との対決。

晴れて理学療法士になった当初の私は、はたして患者さんとうまくコミュニケーションを取れるんだろうか、と一抹の不安を感じていましたが、どうやら杞憂であったらしく、患者との意思疎通で吃音の症状が発生することはありませんでした。

ただ、それ以外の外部からの電話はおろか、内線でのやりとりすら言葉につまってしまうというありさまで、私は無意識なうちに自分がニガテな状況になるのを避けていました。

しかし31歳で教員になろうという私の決断は、同時に今までの逃げの姿勢からの決別をしなければいけないことをも意味していました。

なぜなら教員の仕事というのは、数十人の前での講義のほかは、外部関係者や父兄との調整、依頼、報告ばかりだったからです。

うまく伝えようとすればするほど、吃音が出る頻度があがり、当初はかなり苦しめられたものです。

そして現在。

私なりの免疫療法は徐々に効果があらわれ、多少のことで言葉に引っかかることは滅多になくなっていきました。

とはいえ今でもたまに、私の口や舌は私の指令どおりに動いてくれないこともありますが、私は教員になる前のようにひた隠しにするのではなく、それも『自分の特徴の一部分』と割り切るようになりました。

今は人前で話すときには必ず、

「ああ、実は私には吃音があって、今回の講義もそれが出るかもしれませんが、適当に聞き流してくださいね」と事前申告しています。

といって、

「吃音があるのに人前でしゃべるなんて、けしからん!」

という声はなく、逆に勇気づけられた、頑張ってください、と激励の言葉が圧倒的です。

私の残りの人生は、自分の吃音を否定もせず、ひらきなおりもせず、ただ自然体で向き合っていこうと思います。

吃音にかぎらず、あなたも人との違いに悩んでいるなら、そこから目をそむけず、一度まじまじとガン見してみてはいかがでしょうか?

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう